宇佐の山々

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2024年10月7日月曜日

動画:戦争と宇佐神宮を作成しYOUTUBE UP

 携帯のボイスメモにあった宇佐市民図書館主催「宇佐おもしろ歴史文化講座」2018年12月版をAIで要約、動画化した。

要約内容:昭和6年の満州事変、12年の日中戦争という形で、日本は大陸に向かって突き進んでいきます。この時期とほぼ同じくして、宇佐神宮では昭和7年から16年にかけて、大規模な改修が行われました。宇佐神宮は官幣大社であり、当時の日本は神道が国家宗教とされていたため、国が宇佐神宮を維持・管理していました。

宇佐神宮は田舎に位置していたため、じゅうぶんな整備がされていませんでしたが、国家の聖域にふさわしい施設にするために国費が投入され、この神社は立派に整備されていきました。この昭和の大改修によって、宇佐神宮の景観は大きく変わることになります。

明治時代に行われた神仏分離以前、宇佐神宮はえど時代までの神仏習合の伝統を継承していました。しかし、明治維新により西洋との交流が始まると、神仏習合の文化は西洋から理解されないだろうという考えもあり、神道と仏教が分離されました。明治政府は古代の日本を理想とし、仏教を神道よりも下位に置く政策が進められました。これにより廃仏毀釈が行われ、仏教は抑制されていきました。

昭和の時代に入り、世界と戦争をしようとしていた日本は、宇佐神宮を立派な聖域にしようとしました。ご存知のように、宇佐神宮はかつて隼人の乱や壬申の乱など、国家の危機の際に重要な役割を果たしてきました。武運の神であるはちまんしんは、外敵が現れたときに国を守る神として崇拝されてきました。そのため、戦争が現実のものになると、はちまんしんを祀る宇佐神宮を立派にしようという動きがあったと考えられます。

昭和16年にかけて行われたこの大改修の責任者は、主に陸軍大臣でした。一方で、昭和14年には海軍がやなぎがうら地区の大規模な水田地帯を造成し、練習航空隊を設置しました。宇佐神宮を中心に、陸軍と海軍がそれぞれ拠点を構築していきました。昭和16年の日米開戦時には、宇佐の航空隊も戦争に参加することとなります。

こうして、戦争が国家のちゅうすうに再び関わってくる時代が訪れます。それまでは、戦国時代以降、宇佐神宮は領地を武士から奪われ、小さな田舎の神社となっていましたが、時折大内氏や細川氏といった戦国大名が手厚く祭ることもありました。しかし、継続的に支援されることは少なく、宇佐神宮は疲弊していったのですが、先ほど話した通り、昭和に入り、国家の支援によって宇佐神宮は再び立派なものになったのです。

宇佐神宮の昭和の大造営にはこう言ったことが隠されているのです。





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