今回は、古代の貴族に対する封録制度が地名として遺る封戸地区小学校に集合しての
横田国臣記念碑、立石・石塚貝塚古墳の見学と解説だった。
*宇佐郡地頭伝記(尾立維孝著)の中に
「姓不知、封戸郷長洲城主長洲刑部左衛門尉吉綱、応永五年大友氏艦に与し、大内盛見と戦いて利あらず、因て滅ぶ。」
とある。当時、わが郷里長洲は封戸郷だったようだ。
記念像の前からは正面に両戒山、その左は国東六郷満山と宇佐宮との結節点と言われる津波戸山(六郷山きっての法華経信仰の霊地とされ、水月寺奥の院には六郷山を開いた仁聞が写経の際に筆頭で岩をつついたら水が出たとされる「硯石水」と呼ばれる湧水もみられる。)右手は10号線やJRの電車からも見ることができるUSAの表示看板のある栗山を望む眺望がひらけていた。
平安時代855年、津波戸山で修行に励んでいた能行聖人(宇佐氏の裔)の前に仁聞菩薩が現れ「六郷の山々を修行するには二つの道があり、一つは後山の岩屋(宇佐市) から横城の山(杵築市)を横断する道、二つ目は国東半島の 海岸部の山々を巡る道がある。仁聞の跡を継ぐ者はこれらの修行の道を巡るべきだ」告げ、と国東半島の峯々の巡行路を示したとされている。
六郷満山(ろくごうまんざん)は、大分県国東半島一帯にある寺院群の総称である。六郷は両子山を中心とした山稜の間に開かれた6つの郷、満山はそこに築かれた寺院群を指し、古くから六郷満山文化と呼ばれる独特の山岳宗教文化が栄えた。
伝説によれば、仁聞菩薩が、養老2年
(718年)頃 に、国東半島の各地に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。実際には、古来国東半島にあった山岳信仰の場 が、奈良時代末期から平安時代にかけて寺院の形態を取るようになったものである。
古来の山岳信仰が、近隣の宇佐神宮及びその神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰、さらには天台系修験と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと言われる。今日でも、33の寺院と番外に宇佐神宮を加えた「国東六郷満山霊場」(国東半島三十三箇所)が構成されている。
長洲のわが畑付近からみた津波戸山、両戒山
その後、立石貝塚と石塚貝塚へ
頂いた資料に下記があり、点線部が古代の海岸線として落書きをしてみた
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